アカデミックの実用性

アカデミックなものは実用性が低い、むしろ何の役にも立たないと思っていた。

学術的な理論やセオリーは、対人的な営業の場において皆無と言っていいほどだった。ただ、時には知っている風に口にすることで、勉強している感を演出したり、何となく説得力を持たせたりすることができるのでは、という時もあった。「現場でお金が動いているんだ。そんな机上の空論で飯が食えるなんて、いいご身分だ」くらいの感覚さえ持っていた。

反省したい。何もわかっていなかった。研究者という学術教員の知的レベルは、凡人のそれとは遥かに差があると感じる。新たな人種と出会ってしまったと。

何より彼らの頭脳は、桁外れのインプットから大量のテキストを生産する。シナプスが発達しているのか、学習装置と言おうか、頭脳にあるCPUが違う。言葉を発するスピード感や、原稿を書き上げることの訓練ができている。

営業という現場では、日々多くの人と会い、多くの話を聞き、商品を提案して受注するというそのプロセスにおいては、経験や学習によって磨かれていくが、研究者はそのプロセスを多くは文字情報から獲得しているのではないか。どちらが良くて、どちらが良くないという話ではない。単に、研究者たる人種をリスペクトせざるを得ないと感じる日々である。スポーツ選手も同じかもしれない。初心者のランナーは、5km走るだけでも大変だが、慣れて続けていくと10km、20kmと走れるようになる。研究者にとっての論文執筆も、1,000文字はあっという間、数時間で1万字も書ける訓練がなされている。

さて、本題の実用性については、正直まだ結論は出ていない。アカデミックなものでも、実用性の高い学問と、そうではないものもあるだろう。ただ、今のところ言えることは、もっと学術研究の結果を、日常の仕事の中で活かすべきではいうことだ。例えばが出てこないが、ある理論が学術的に結論づけられているのでれば、それは再現性の高い方法論に落とし込まれるはずである。そうすると、同じ過ちをしにくくなり、結果的に生産性が向上したり、成功確率を高めることにつながる。

大手企業が産学での連携をしているのも、そういった研究開発のためのものである。そう考えると、知の内製化を外部化することも、選択肢にしてみてもいい。企業活動は研究の積み重ね。研究のプロをうまく活用する道筋を見つけたい。企業人と研究者の往復こそ、社会人大学院の価値だと思える。