広報は楽しい?

仕事柄、広報の人と接することが多かった。

「今度、広報担当になりました」と声をかけてくださる方を見ると、以前は「よかったですね」と返事をした。実際、広報の仕事は、どこか自由で企画次第で会社を動かせると思っていたからだ。

ただ、今思うと彼女たちはもがいていたに違いない。すでにルール化された仕事を淡々とこなすことに時間が割かれるか、新しいことをしても評価されにくいのだから。

広報に関する書籍は、以前よりも格段に増えた。単純にリリース掲載数を増やすものから、SNSを使い安価に情報発信をする術、高尚な理念をもとに、それを浸透させることを説く書籍とレベルもさまざまある。広報担当者は、その数々の書籍を読み漁り、広報とは何かを考える。面白い仕事である一方、責任の重さに比べ社内評価の低い、「割に合わない」仕事ということにも思いを巡らす。

偶然にも知り合った他業種の広報パーソンと、当たり障りのないシェアをし、時には熱く語り合い、そして慰め合って、自分たちの職域を共感し合える小さなコミニティーができてくる。

経営に近い仕事、誇り高い仕事と自分を奮い立たせるも、出社後の9割ルーティンの仕事をこなした後は、いつも帰宅時間と睨めっこが始まる。「会社のことは当然好きだ。広報が好きにならなくてどうする」と自分に言い聞かせながら、その姿勢を貫くことに精一杯になる。果たして広報部は生産部門なのか、コスト部門なのか。ジレンマがつきまとう。

突然の報道記者からのオファー。これが実れば大きなチャンス。だからこそ失敗できない。それなのに、社内の非協力な人たちを何とかまきこもうと孤軍奮闘したあげく、何とか掲載してもらうことができた。その後、何かが生まれたかというと、掲載紙が届いたことと、数件の営業電話があったくらいだった。こんなことは日常茶飯で、「はい次、はい次」と言い聞かせないとやってられない。

広報部は必要なのだろうかと、ふと思う。ひょっとしたらなくても、あまり変わらないのかもしれない。会社は今業績は不審で、営業を一人でも増やしたいはずなのに、私はそこに加勢できていないのでは。自分の立場に不安がないわけではない。

 

【ここまでのまとめ】

広報担当は、広報は本でも学ぶことができる。

広報担当は、オペレーショナルな仕事が大半。
広報担当は、本当に必要なのかと迷う日々。


【マイナス面(仮説)】
・広報担当は、使える予算が限れるため、自分自身で何とかしようという発想になる?
・広報担当は、成果に基づく評価をしにくいため、生産に寄与したものと見なされにくい?
・広報担当は、社内の壁に悩まされて、組織を牽引しきれるほどの力がない?
・広報担当は、ジョブローテのため、外部パートナーへの依存度が高い?

・社内を知らない人を広報のプロを採用する、ジョブ型雇用は日本に馴染まない?

 

では、本当に広報を必要とする人材は、果たしてどこにいるのだろうか?


【たとえばこんな人】
広報もマスターしたい経営企画部員
広報もマスターしたいマーケティング部員
広報もマスターしたい財務部員(IR)
広報もマスターしたい人事部員

 

★幹部候補生(ビジネスリーダー)は、MBAを取得することは、いわば定石である。
しかし、MBAで語られる広報は、情報発信や社内広報、セールスの一部に過ぎない。
MBAだけでは、その組織で広報は根付かない。

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今、コロナ後の業態変革が叫ばれる。
何をしてくれる企業なのかという期待に応えることも広報だと、ある先生は言っている。

社内の中核人材こそ、広報の本質を理解し、社内の育成が求められる。


自分の身を置く組織の理念を社会と共有するための方法論を研究する場は、国内でも限られている。高田馬場に、社会情報大学院という大学を見つけたことがある。チャレンジングな場として期待したい。

 

かつての広報は、マスコミから情報が伝達されることをよしとしていた。自社の名前・製品名が他社より露出している量を競った。また、社会から非難を集めないように、細心の注意を払い、誠実な企業であり続けようと思った。これらを通じて、広報部は仕事をしているという実感を得られていたのだ。

しかし、いま時代は変わり、コロナ禍において時空感にディスタンスが生まれ、インターネット回線で結ばれた人同士が、同じ理念で仕事をすることに歪みが出始めている。働き方改革、副業の自由など、個人が組織への帰属意識を保つための規律はなくなりつつある。そこに、広報ができることがあるのではないか。

理想的には、広報部はなくとも、社員みんなが広報パーソンになることだと説く人もいる。それは、広報が正しく理解されて初めて成り立つと思う。広報とは、スキルや機能ではなく、一つのマインドのことなのだと思うようになった。