文章をわかりすくする実験

文章を書くことが苦手だ。

今まで、褒められるような文章を書いたことがほぼない。ただ、唯一思い出されるのは、学生時代にゼミで提出した4,000字の小論文。「マーケティングについての基礎概念」というテーマだった。これ自体は文章力がよかったのではなく、たまたま引いた文献がテーマに適していただけだったように記憶している。

社会人になってから、書く文章はせいぜい200〜500字程度で、Webやパンフレット、企画書の一部、あとは社内文書のようなものしかない。その後、職種も変わり、チャットやメール以外で文章を打つことがなくなった。

 

今年に入ってから、少し英語学習を始めた。TOEICにも2回チャレンジしたが、思ったほどのスコアにはまだ到達していない。それでも、英語という言語には興味があり、英単語帳を開くのが趣味になっている。新しい表現にであったり、別の単語と意味の似た単語に出会った時の「点と点がつながった」感が好きだ。

 

そして今日、久しぶりに文章を書くということにチャレンジしてみた。思いついたことを、ただ書き連ねるだけのトレーニングのようなものだ。いい文章を書こうと思ったわけではない。読者などはいないものとして書く、自分だけに向けた文章だ。もちろん日本語で書いた。

書いてみると意外とペンは進んだ。書き終わって見直してみると、かなりいい加減な文章だが、意識のどこかで、読者を意識してしまっている文章になっていた。そして、もう一つ気づいたことは,自身の書くスピード。単純計算で、30分で約1,000字になることに気がついた。1時間30分で3本分書いたからだ。そうなると、1万字の原稿を書こうと思ったら、(調べたり整理したりする時間を除き)約5時間ということになる。この自分のペースは、走る時のペースや読む時のペースのように、把握しておきたい指標になるかもしれないと思った。

そして、今回の本題はここからだ。

手書きの文章を、Wordで打ち直してみたのである。それは、文字数をカウントするためだった。そして、1テーマで1,000字30分というペースを確認したあとに、ふと英語に翻訳してみようと思ったのだ。そうすると比較的平易な英語に訳された文章が一瞬でできあがった。読むたびに自分の書いた原稿と、英文の一致、不一致を確認することができ、とても興味深かった。これは英語学習にも使えるテクニックの一つだろう。英文に訳された自分の文章を読んで、自分の文章の拙さにも気づいた、次の瞬間である。

「これをさらに日本語に翻訳したら、無駄な要素は削られたシンプルな文章ができるのでは?」

早速試してみた。つまり、日→英→日に訳し戻すという初の試みだった。そうすると、たしかに原文は自分の文章でありなが、角の取れた読みやすい文章が現れたのである。ちょっと大袈裟だが、これは自分にとっては嬉しい発見だった。

文章力に自信を持たない自分が、英語を媒介にして、読みやすい文章に正されるような感覚。このなんとも言えない、AIによる添削機能?のようなものをいろいろ試してみたくなった。

 

文章の校正をする際に、英→日にするテクニックは、おそらくすでに存在するだろう。同じ方法を自ら発見した人は、きっと他の誰かにも伝えたくなったのではないか。そう思えるような実験であった。

誰にもわかりやすい文章というのは、書き手はみんな心がけはするものの、できていないと感じることも多いのではないか。今はスマホでも簡単に翻訳ができるから、これから試す機会は増えるだろう。英語学習と文章力向上の一石二鳥だ。

 

 

 

 

 

 

 

広報は楽しい?

仕事柄、広報の人と接することが多かった。

「今度、広報担当になりました」と声をかけてくださる方を見ると、以前は「よかったですね」と返事をした。実際、広報の仕事は、どこか自由で企画次第で会社を動かせると思っていたからだ。

ただ、今思うと彼女たちはもがいていたに違いない。すでにルール化された仕事を淡々とこなすことに時間が割かれるか、新しいことをしても評価されにくいのだから。

広報に関する書籍は、以前よりも格段に増えた。単純にリリース掲載数を増やすものから、SNSを使い安価に情報発信をする術、高尚な理念をもとに、それを浸透させることを説く書籍とレベルもさまざまある。広報担当者は、その数々の書籍を読み漁り、広報とは何かを考える。面白い仕事である一方、責任の重さに比べ社内評価の低い、「割に合わない」仕事ということにも思いを巡らす。

偶然にも知り合った他業種の広報パーソンと、当たり障りのないシェアをし、時には熱く語り合い、そして慰め合って、自分たちの職域を共感し合える小さなコミニティーができてくる。

経営に近い仕事、誇り高い仕事と自分を奮い立たせるも、出社後の9割ルーティンの仕事をこなした後は、いつも帰宅時間と睨めっこが始まる。「会社のことは当然好きだ。広報が好きにならなくてどうする」と自分に言い聞かせながら、その姿勢を貫くことに精一杯になる。果たして広報部は生産部門なのか、コスト部門なのか。ジレンマがつきまとう。

突然の報道記者からのオファー。これが実れば大きなチャンス。だからこそ失敗できない。それなのに、社内の非協力な人たちを何とかまきこもうと孤軍奮闘したあげく、何とか掲載してもらうことができた。その後、何かが生まれたかというと、掲載紙が届いたことと、数件の営業電話があったくらいだった。こんなことは日常茶飯で、「はい次、はい次」と言い聞かせないとやってられない。

広報部は必要なのだろうかと、ふと思う。ひょっとしたらなくても、あまり変わらないのかもしれない。会社は今業績は不審で、営業を一人でも増やしたいはずなのに、私はそこに加勢できていないのでは。自分の立場に不安がないわけではない。

 

【ここまでのまとめ】

広報担当は、広報は本でも学ぶことができる。

広報担当は、オペレーショナルな仕事が大半。
広報担当は、本当に必要なのかと迷う日々。


【マイナス面(仮説)】
・広報担当は、使える予算が限れるため、自分自身で何とかしようという発想になる?
・広報担当は、成果に基づく評価をしにくいため、生産に寄与したものと見なされにくい?
・広報担当は、社内の壁に悩まされて、組織を牽引しきれるほどの力がない?
・広報担当は、ジョブローテのため、外部パートナーへの依存度が高い?

・社内を知らない人を広報のプロを採用する、ジョブ型雇用は日本に馴染まない?

 

では、本当に広報を必要とする人材は、果たしてどこにいるのだろうか?


【たとえばこんな人】
広報もマスターしたい経営企画部員
広報もマスターしたいマーケティング部員
広報もマスターしたい財務部員(IR)
広報もマスターしたい人事部員

 

★幹部候補生(ビジネスリーダー)は、MBAを取得することは、いわば定石である。
しかし、MBAで語られる広報は、情報発信や社内広報、セールスの一部に過ぎない。
MBAだけでは、その組織で広報は根付かない。

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今、コロナ後の業態変革が叫ばれる。
何をしてくれる企業なのかという期待に応えることも広報だと、ある先生は言っている。

社内の中核人材こそ、広報の本質を理解し、社内の育成が求められる。


自分の身を置く組織の理念を社会と共有するための方法論を研究する場は、国内でも限られている。高田馬場に、社会情報大学院という大学を見つけたことがある。チャレンジングな場として期待したい。

 

かつての広報は、マスコミから情報が伝達されることをよしとしていた。自社の名前・製品名が他社より露出している量を競った。また、社会から非難を集めないように、細心の注意を払い、誠実な企業であり続けようと思った。これらを通じて、広報部は仕事をしているという実感を得られていたのだ。

しかし、いま時代は変わり、コロナ禍において時空感にディスタンスが生まれ、インターネット回線で結ばれた人同士が、同じ理念で仕事をすることに歪みが出始めている。働き方改革、副業の自由など、個人が組織への帰属意識を保つための規律はなくなりつつある。そこに、広報ができることがあるのではないか。

理想的には、広報部はなくとも、社員みんなが広報パーソンになることだと説く人もいる。それは、広報が正しく理解されて初めて成り立つと思う。広報とは、スキルや機能ではなく、一つのマインドのことなのだと思うようになった。

トレイルランニングの練習

平日の休暇を利用して、埼玉県飯能にある伊豆ヶ岳までトレランの練習に行きました。とてもよい天気で、風も気持ちよく、絶好のコンディションでした。

正丸駅で下車。何ヶ月ぶりかの山の景色。人が少ない分、人目を気にせず、自分のペースで練習ができるよいコースだと感じることができた。

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舗装された登り坂を1kmくらい抜けた後、山の敷地内に差し掛かる。久々の自然にテンションが上がる。

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小川と並走した急斜面は、この先道が続いているのか不安になるような景色に。辛うじて道らしいところを抜けながら、走ることもままならず歩き続ける。

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目の前には急勾配の階段が続く。左に人工の手すりがつけられているから、たしかに登山道なんだと安心しつつ、息を切らして登り続ける。

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案の定、しばらく登りが続く道。追い越す人も3〜4人程度。中高年女性の二人組か、シニアのご夫婦といった方が登山を楽しんでいる。健脚コースとして紹介されていたから、子供や初心者よりは少し経験のある人を対象にしたハイキングコースになっている。

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1時間くらいすると、ようやく眼前には開けた景色が広がる。東西南北の確認をすることもなく、10秒程度撮影のために立ち止まる。

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登り始めて、おそらく5km弱くらいで伊豆ヶ岳に到着。思っていたよりは、早くついたという印象。この先に進むか一瞬迷うが、久々の山なので、予定外のことは控えることにした。

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下りは、上りの半分くらいの時間で、スピードに乗って下りていく。滑りやすい土のあたりは警戒するも、スピードが出てくるとあまり気にしなくなるのが不思議なものだ。トレイルの一つの魅力は、なだらかな下りを疾走するところにあるのだと感じる。1時間30分のほぼ予定通りの時間で練習を終えられた。

都心からは2時間程度の道のりだが、軽装で十分行ける場所と考えると、お手軽コースかもしれない。

新型コロナウィルスで、あらゆるスポーツが中止を余儀なくされているが、ランニングはある程度は許容されているなか、トレランなどは今後さらに競技人工が増えるだろう。大自然のことを考えながら、己の体力の限界に挑むところが、このスポーツの魅力だ。

体幹でバランスをとり、いかなる足場にでも対応しながら、その速さを競う。もう無理だと体が悲鳴をあげても、少し休むだけで回復する。それは自然と一体になり、エネルギーをもらえるからのように感じる。ロードランニングで基礎体力を強化しながら、まずは30km級のトレランレースで完走し、50歳までに100km級のレースに参戦することを目標にしたい。

弁当男子に

家にいる時間を充実させるには、食べたいものがいつでもストックされているといいなと思うようになり、弁当作りを始めてみた。

見た目よりも、ボリュームや食材のバランスを考えて何を作るかを考えるのが楽しい。また、余っている食材で何か簡単な一品ができたときは、嬉しい気分になることに気づく。

始めたもう一つのきっかけは、ランチのお店が閉まっていることや、外で食べることへの抵抗感から、テイクアウトを利用するようになるも、毎日1,000円という金額に罪悪感を感じ始めたことだ。それまでは650円くらいまでに抑えていたのに、最近ランチ代も膨れ上がったので弁当を作ることに行き着いた。

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(カロリーは高めの弁当)

 

家で食べる料理を作った後も、少し残して弁当用にストックしておく。茹でるだけ、混ぜるだけ、焼くだけのシンプルな工程でできるものが好ましい。夜の残りで2品ほど、朝になってからもう一品という感じが続けやすいか。

 

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(見た目が茶色いので、オクラで緑を足してみる)

 

今は、とにかく家にいる時間が増えたからできるところもあるだろう。これが、また普段通りになった時に続けられるかは、考えないようにしている。やりたいからやっている。飽きたらやめる、それでいい。もし、続けていくモチベーションになるものがあるとしたら、どれだけ食費が浮いたか、または冷蔵庫の中が今まで以上に充実しているかという点が大事と思う。

 

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(卵焼きでスペースを埋めることも覚えた)

 

弁当男子という言葉が使われたのは、2008年ごろだという。その頃はまだ独身でもあったし、料理にはさほど興味もなかった。しかし、40歳を過ぎて少し身体のことも考え出し、よりヘルシーな食事をと考え始め、自炊に興味が出てきた。今は、特に男性が料理をすることがブームでも、珍しいことでもなくなった。時代の流れだと思う。

クックパッドを料理する時よく見ていたが、最近はYouTubeを見ることが増えた。これも一つの流れなのか。テレビがついていると料理番組なども気になる。新しい食材や調味料に手を広げてみたい。真の弁当男子になるための道を、もう少し歩んでみようかな。

温泉とランニング

ランニングを始めて1年3ヶ月。はじめは2kmくらいをゆっくり走っても、「もう無理・・」と思っていた。

今日は10日ぶりに走った。17.6kmを1時間42分41秒。1kmを約5分50秒というペースになる。ゆっくりキロ7分ペースで走ろうと思いスタートしたが、どうも気持ちとしては、少しでも早くと思ってしまうようだ。

ランニングを始めた頃は、いつも決まった道を走っていた。ただ、同じ道は飽きてしまう。せっかくだから、新しい発見も欲しいと思い、いつも違うコースを考えるのが楽しい。こんなところにアウトドアの店があるとか、こんな閑静な住宅街があったのかと発見しながらゴールを目指す。

去年の夏くらいからだろうか。15kmくらいを走る場合は、ゴールは温泉(銭湯)にするようにしている。走り終わった後に、熱い風呂とサウナ・水風呂を繰り返すのが、とても爽快だ。帰りは公共交通機関で30分くらいで帰れる場所を探す。

まずはゴール地点である温泉をチェック。だいたい15kmから20kmくらいの距離にあるのがベスト。その温泉には、サウナがあることが一つの条件になる。また、週末はどこのスーパー銭湯も混んでいるため、平日休みに行くとゆっくり入れるのがいい。

ゴールを決めたら、そこまでの行き方(道のり)や時間配分を決めて走り出す。途中で道を間違えてもGoogleマップが教えてくれる。今はツールを使えば、いくらでも最短距離でゴールに辿り着くことも可能だ。ただ、必要以上に正しい道を確認しなきゃという意識が働いてしまうのも、どこか現代っぽさを感じてしまう。それは、決めた時間通りにことが進まないことへの焦りの様なものだ。

勉強している、あるいは読書をしている人は、何かしらのゴールを設定するのが普通だ。しかし、脇道に逸れて、興味の対象がずれていったとしても、それはそれでよいのではないか。

現代人のみならず、タイムトライアルの世界で生きていくには、最短距離で最速スピードで走り抜けることが求められる。どんな形であれ、いち早くゴールに着いた人間が勝者という価値観が、そうさせるのかもしれない。勝つか負けるかの世界では、当然と言える。

ランナーにとって、温泉というご褒美があると、長い距離でも頑張れる。決して速さだけではなく、完走するためのゴールだ。最短距離でなくとも、決めた時間の中で、走り続けた者だけが得られるご褒美としての温泉。これはトレーニングには、必要な条件かもしれない。

レーニングとしてのランニングを楽しみながら、そして5月のレースでは、その成果を出したいと思っている。そのゴールは温泉ではなく、相対的な順位や過去の自分との勝負になる。

活字からのインプットの試行錯誤

活字によるインプットの限界を感じる。

昔から読むのが遅いこと、読解力の低さが悩みだった。とにかく本一冊に目を通して読了すれば、達成感は感じられるが、数日したら何も残っていないことも少なくない。これでは、読んでいないのと一緒だ。

読書に関する本が好きで、みんなどうやって本の中身をインプットし活用しているのかが気になって、すぐに手にとってしまう。書いてあることは、大筋共通している。その一つが、全部読まなくてもよいということ。たしかに、自分に必要な箇所だけ見つけて読むに越したことはないが、なんか怠けた気や損した気がしてしまう。それから、本に線を引いたり、そこにメモをしながら読むという方法。試しに、ブックオフで買った(汚しても気にならない)実用本については実践してみると、たしかに吸収した感はある。かつての試験勉強の感覚が蘇る。ただ、なかなか新品の本に線を引くのは勇気がいる。だからと言って、ノートにメモをしながら読むのも集中力が途切れてしまう。

本ではないが、試しに新聞の電子版で気になる記事をプリントアウトし、のちに精読し、それを分類わけすることにしてみた。これは案外多くの記事がストックされていくが、なかなか日々のスピードに追いつかず、できる時だけやることになり、毎日は続かない。それに、トナーの消耗が早く、コスト高になってしまう。

ある人から、書籍を買うより、論文をネットで検索しプリントアウトして読んでいるという人がいた。これは面白いと思った。研究者による論文なので、論理的な文章かつ結論が提示されていて、かつ1テーマにフォーカスされている。この時に重要なのは、検索するキーワードと、何を知りたいかが明確になっていることだ。本を選ぶのと同様、探すのに時間がかかる。

こうして試行錯誤を繰り返しながら、現段階で一番よいと感じている方法は、書籍に関しては同じものを繰り返し読むということだ。本の内容は一回読んだくらいでは、なかなかわからない。前に書いていたことは忘れるし、とにかく読み切ることが目的化しがちだからだ。専門書や小説にしても、だいたい一回目を通したら、さようならということが多い。ただ、二週目に入ると読み方が変わることもある。受験勉強のように、参考書は浮気せずに、何度も繰り返すことが肝要な気がしている。

あとは、好きな書き手を見つけて、それを追いかけることで、その定着度を上げる方法もある。反対に、無作為でもとにかく読み散らかして、その中に引っかかるアンテナを持つようにする。活字によりインプットは時間がかかるため、より目の運動量を高め、情報の処理能力を高めることが、今の情報社会では必須のスキルなのだと思う。

今後は、活字だけではなく、耳によるインプットや、動画での視覚的なインプットなど、それぞれを使い分けながら、脳を鍛えていきたい。このブログのようなアウトプットが、インプットの精度を上げる効果があると、期待をしている。

アカデミックの実用性

アカデミックなものは実用性が低い、むしろ何の役にも立たないと思っていた。

学術的な理論やセオリーは、対人的な営業の場において皆無と言っていいほどだった。ただ、時には知っている風に口にすることで、勉強している感を演出したり、何となく説得力を持たせたりすることができるのでは、という時もあった。「現場でお金が動いているんだ。そんな机上の空論で飯が食えるなんて、いいご身分だ」くらいの感覚さえ持っていた。

反省したい。何もわかっていなかった。研究者という学術教員の知的レベルは、凡人のそれとは遥かに差があると感じる。新たな人種と出会ってしまったと。

何より彼らの頭脳は、桁外れのインプットから大量のテキストを生産する。シナプスが発達しているのか、学習装置と言おうか、頭脳にあるCPUが違う。言葉を発するスピード感や、原稿を書き上げることの訓練ができている。

営業という現場では、日々多くの人と会い、多くの話を聞き、商品を提案して受注するというそのプロセスにおいては、経験や学習によって磨かれていくが、研究者はそのプロセスを多くは文字情報から獲得しているのではないか。どちらが良くて、どちらが良くないという話ではない。単に、研究者たる人種をリスペクトせざるを得ないと感じる日々である。スポーツ選手も同じかもしれない。初心者のランナーは、5km走るだけでも大変だが、慣れて続けていくと10km、20kmと走れるようになる。研究者にとっての論文執筆も、1,000文字はあっという間、数時間で1万字も書ける訓練がなされている。

さて、本題の実用性については、正直まだ結論は出ていない。アカデミックなものでも、実用性の高い学問と、そうではないものもあるだろう。ただ、今のところ言えることは、もっと学術研究の結果を、日常の仕事の中で活かすべきではいうことだ。例えばが出てこないが、ある理論が学術的に結論づけられているのでれば、それは再現性の高い方法論に落とし込まれるはずである。そうすると、同じ過ちをしにくくなり、結果的に生産性が向上したり、成功確率を高めることにつながる。

大手企業が産学での連携をしているのも、そういった研究開発のためのものである。そう考えると、知の内製化を外部化することも、選択肢にしてみてもいい。企業活動は研究の積み重ね。研究のプロをうまく活用する道筋を見つけたい。企業人と研究者の往復こそ、社会人大学院の価値だと思える。