なぜ社会人が大学院に入るのか

22〜23歳で大学を出て働く人が、周りには多くいる。いわゆる偏差値の高い大学を卒業し、有名な会社に勤めることができる人もいれば、そこそこの私立大学を卒業し、そこそこの企業に就職したという人も数多く存在する。

私は、いわゆる氷河期世代の一人。残念ながら、偏差値の高い大学に行けなかったことを、未だに根に持ち、学歴コンプレックスは消えていない。現在、教育関連の会社で社会人の学びを支援するのが、ここ15年近く携わらせてもらっている仕事だ。

この教育ビジネスの世界では、人生100年時代における「リカレント教育」が、マーケットのキーワードになっている。学校を出てから仕事をして、60歳で引退をするという人生設計から、キャリアの途中で学び直しをして、再度仕事やプライベートを充実させる、そんな人生設計が提案されている。

不思議なことに、社会人で学ぼうとする層は、二極化しているように感じている。一つは、高学歴層。国公立大や有名私大を卒業した、いわばエリートや幹部候補生。もう一つは、高校・専門卒・夜間や通信大学卒などの低学歴と言われかねない層である。もちろん、その中間層もいるにはいるが、存在感は薄く感じられる。

学ぶ目的はそれぞれだが、それでも共通点はある。それは、当然だが、学ぶことに真剣であること。真面目とも違うが、学ぶことが好きな人という印象が強い。ただ、違いとしては、前者の高学歴層は、自身の研究テーマを高度に磨き上げるのに対し、低学歴層は何かを取り戻そう、追いつこうとする姿勢が見えなくもない。

両者の存在に気がついてから思うところは、世の中の生き辛さを感じて、居場所を求めてきたように見えてしまうことがある。そう感じる原因は、自分自身の学歴コンプレックスからくる歪んだ視点からくるものかもしれない。

かつて、30歳くらいに大学院に行くという選択肢を考えたことが一瞬あった。そのころは、こんなに忙しいのに大学院に行くなんて、会社を辞めるしかないと思ったら、怖くなって、それ以上足が前には進まなかった。そのころ転勤になったことも、一つの言い訳になってはいる。

「なぜ社会人が大学院に入るのか」という問いについては、社会のなかでの自分のポジションを明確に描いている人と、明確ではないが、とにかく自身の居場所を探し求め、自分探しをしている層があるというのが、今のところの結論になる。

悪くはない。自分もかつてそうだったように、そんなことを考えるタイミングは、人生のなかで何回かあるだろう。そんな人に寄り添える仕事の意義を考えながら、行動に移すことが、当面の目標である。